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世界の都市見聞録A

「スペイン」






 

1.スペインの概要と学ぶべきポイント

 2008年3月にスペインを10日間(8泊10日)視察してきました。視察の目的は、弊社がコンサルティング業務を行っているスペインをイメージしたSCのデザインコンセプトの策定のためです。そのためスペインを実際に見聞し、SCの商環境づくりのビジネス・ヒントを得ることでした。
 私は、SCの商環境づくりの中で「モールや場」は大切な要因であると考え、「店舗・商品」と「通路」と「空間」及び「時間」を一体化し、快適かつ異質性のあるエンターテインメント・プレイスを構築することをモール&プレイス戦略と呼んでいます。モールのタイプは「アメリカ型のギャレリア型モール」と「ヨーロッパ型の街角型モール」と「タウンセンター型のまちづくり型モール」の3タイプがあります(六車流:流通理論)。
 ヨーロッパ型のモールを形成する要素は「ストリート」(通り)、アレイ(小径)、プラザ(広場)、パティオ(中庭)、「街角」に「空間と時間」の次元を付加したものです。ヨーロッパの中でも、スペインが一番、まちづくり・SCづくりのデザインの原点に近いと言われていたので興味を持って研修視察を行ってきました。
 I Saw All Spainは、5つの視点で編集(896-900)しており、まず、紀行文から始めさせていただきます。

@リスボン(ポルトガル)視察・研修
 大航海時代の記念碑やジェロニモス修道院や中心市街地の散策及び歴史的旧市街地の視察・研修をしました。

Aトレド(スペイン)視察・研修
 ローマ時代は一城塞都市でしたが、6世紀に西ゴート王国の首都になったことから、大きく発展しました。その後、イスラム教徒によって征服され、それに対し何回かの再征服が繰り返された結果、トレドの文化はキリスト教、イスラム教、ユダヤ教の文化が融合して形づくられていきました。1561年にマドリードに遷都してからも、スペイン・カトリックの首座大司教の座として、今も宗教の一大中心地であるトレドを視察・研修しました。

Bマドリード(スペイン)視察・研修
 スペインの首都であり、1561年にフェリペ2世がスペイン王国の首都にしてから本格的に発展が始まった都市を視察・研究しました。

Cエル・エスコリアル(スペイン)視察・研修
 1557年、サン・キンティンの戦いでフランス軍を破ったフェリペ2世からの勝利を記念して、このエル・エスコリアルに宮殿兼修道院を建設しました。高さ95mのドームを持つ聖堂を中心にサン・ロレンソ修道院と王宮を視察・研修しました。

Dセゴビア(スペイン)視察・研修
 世界遺産に登録されているローマ時代の水道橋に代表される古い都市で、要塞化された断崖の上に築かれている美しい城のアルカサル(スペイン語で「城」の意)があります。このアルカサルはディズニーの映画「白雪姫」に出てくる城のモデルとなっており、セゴビアの街からアダラーマ山脈まで一望できます。この美しくかつ歴史的都市のセゴビアを視察・研究しました。

Eセビリア(スペイン)視察・研修
 セビリアの町の中心部に残っているカテドラル(大聖堂)やアルカサル等の建築物は、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)の拡大期であった13〜16世紀のもので、その後、セビリアはアメリカ大陸との交易港として更なる繁栄期を迎え、1519年に世界一周の旅に出たマゼランも、このセルビアから出発しています。17世紀には莫大な富を背景に芸術の都として知られるようになったセルビアを視察・研修しました。

Fコルドバ(スペイン)視察・研修
 イスラム建築の骨組みを残してキリスト教会に改築した不思議な空間の魅力のメスキータのあるコルドバを視察・研修しました。

Gグラナダ(スペイン)視察・研修
 アルハンブラ宮殿と夏の離宮があるグラナダを視察・研修しました。

Hミハス(スペイン)視察・研修
 コスダデソル(太陽海岸)沿いをドライブし、途中で白壁のかわいい街並みのミハスを視察・研修しました。

Iバルセロナ(スペイン)視察・研修
 中心市街地のグラシア通り、ランブラス大通り、天才建築家ガウディの傑作で今なお建築中の聖家族教会(サグラダファミリア)やピカソ美術館を視察しました。

 このように、スペインは商業施設ではなく、ヨーロッパ文化及びスペイン文化を視察・研究し、SCの「にぎわい空間」「にぎわい時間」を創出するためのモール・プレイス戦略策定の発想旅行でした。  

2.スペインの中心市街地と商業規制

 ヨーロッパは、アメリカと異なり中心市街地が残っており、中心市街地の商業は元気があると言われています。確かにロンドンやパリ、今回の視察先であるスペインのマドリードやバルセロナさらにはポルトガルのリスボンの中心市街地は存在しますが、ヨーロッパの中心市街地は商業調整と環境規制の2つの規制に守られて成り立っています。ヨーロッパには法律上及び宗教上の規制が多々あり、それが商業の郊外化を阻止しています。一方、アメリカは自由主義経済ですので、生活者の意思(生活者の利便性あるいは生活者の意向)に基づいた経済社会ですので、「車社会」においては、中心市街地である都心よりも、車で便利な郊外の方が商業に適していることになります(ただし、アメリカにも環境規制はあります)。
 スペインの都市構造を見ていますと、郊外に住宅が次々と移り、また、車の保有率も高く、生活の基盤は郊外に移りつつあります。ところが、郊外にはカルフールのような日本で言えばGMSやSMが中心であり、SCはほとんどありません。アメリカとヨーロッパの大きな商業上の相違点は次の2つです。

@第1の相違点は、アメリカは自由経済体制で、都市計画法や環境面の規制はゾーニング法によって決められていますが、商業調整は行っていません。それゆえに、基本的には住民や生活者の自由なる選択によって商業の開発ができます。一方、ヨーロッパやスペインは商業調整と環境規制により必ずしも住民や生活者の自由なる選択により商業の開発は出来ません。 ただし、最近はアメリカでも住民の立場や環境面の立場、過当競争の立場からウォルマートなどには出店反対の声が挙がっています。

A第2の相違点は、アメリカは20世紀が生んだ最強の商業業態であるSC(アメリカの小売販売額の53%はSCの売上)の洗礼を受けており、百貨店、GMS、物販専門店、飲食店、サービス店、エンターテインメント施設も、全てSCを何かの形で意識せざるをえない状態です。それに対して、スペインやヨーロッパ諸国は、EUになり規制緩和が行われつつあり、覇権業態であるSCが郊外に続々と進出すると都心商業が次々と郊外のSCに切り崩されることになります。ヨーロッパの商業はSCの洗礼を受ける前の過渡期業態の状態です。

 日本はアメリカとヨーロッパの中間であり、かつては旧大店法により商業調整が行われており、それが1991年に緩和されはじめ、2000年には廃止し、一挙に都心対郊外の状況の変化及びSCの大量かつ大規模開発が行われ、まさにアメリカ並みの商業進化が起ころうとしていました。ところが、2005年〜2007年にかけてまちづくり3法(大店立地法、改正都市計画法、中心市街地活性化法)により環境規制という名のもとに実質的な商業調整が始まりつつあります。
 スペインやヨーロッパ諸国を見ていると、日本の1970年代、韓国の1990年代を思い出します。つまり日本の1970年代は車社会となり、また、人々が郊外へ移動し、生活の基盤は郊外へ移りつつありました。しかし、郊外にはGMS単独型やCSC(コミュニティ型SC)のみであり、郊外はSCの空白立地であり、大きな商業上のビジネスチャンスがありました。韓国の1990年代も同じでした。まさに、スペインやヨーロッパ諸国はSC出店時代の前夜なのです。
 今後、10年後あるいは20年後のスペインやヨーロッパの商業構造がSCの洗礼を受けて、どのように変わっていくのか楽しみです。
 私は、都心対郊外の激しい戦い、言葉を変えるならば、中心市街地の成立性は、商業規制では図れないと思っています。
 「都心と郊外が同じレベルで競争すると郊外が勝つ。それゆえに都心商業は郊外商業が真似のできない商業を確立しないと成立しないという都心商業に対する郊外商業基軸の原則」があります(六車流:流通理論)。旧大店法で規制された時代(1970〜1980年代)、旧大店法で守られるべき商店街は長期低落下の歯止めがきかず、過渡期業態にすぎないGMSやCSCや中型カテゴリーキラーが大繁盛しました。現在でも、まちづくり3法でSCの出店が規制されると、得をするのは中心市街地ではなく、既に開発された大型の本格的SCです。規制なくして中心市街地を形成しているモデル都市は「ニューヨーク」と「ポートランド」です。

3.スペインと融合文化

 文明西進論という考え方があります。近代文明はルネッサンスの中心であるイタリアから始まり、スペイン→ポルトガル→オランダ→イギリス→アメリカ→アジア(日本、中国、インドあるいはロシア?)と、文明は西へ西へ進むという説です(過去においては、文明の中心は800年単位で東洋と西洋へと相互移動しています)。スペイン、ポルトガル、オランダ、イギリス、アメリカは世界の覇権国家(政治的、経済的、軍事的、文化的な中心となった国)になりました。
 スペインは16世紀後半、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれた帝国として、大航海時代にその名を馳せました。スペインの位置するイベリア半島は、その昔はローマ帝国の一部であり、その後、西ゴート王国が興り、711年以降は北アフリカから侵攻したウマイヤ朝のイスラム勢力によって支配されました。しかし、718年に西ゴート族でキリスト教徒のペラヨがアストゥリア王国を建国し、ペラヨはイスラム勢力に対してレコンキスタ、すなわち異教徒に奪われた国土を取り戻そうとするキリスト教徒の国土回復運動を始めました。幾度にもわたる戦いを続けた結果、アストゥリア王国は領土を拡大させレオン王国へ発展、そのレオン王国はやがてカスティリヤ王国、ナバラ王国、アラゴン王国として分割したものの、1479年にアラゴン王国のフェルナンド王子とカスティリヤ王国のイザベル女王が結婚し、両国を統一し、これがスペインの誕生になったというわけです(1492年スペイン帝国が成立)。16世紀に入ると、スペインのイザベル女王の子で第2王女のファナは、神聖ローマ帝国皇帝でハプスブルク家のマクリミリアン1世の子と結婚し、このことでファナの長男はカルロス1世となり、スペインとハプスブルク家の領土を1516年に全て継承することになりました。
 ハプスブルク家の領土は、オーストリア、ネーデルランド、ナポリ、シチリア、サルディニアで、これにスペインの海外の植民地を加えた全てが、カルロス1世のものとなりました。スペイン帝国は、その後フェリペ2世の時代に最盛期を迎えますが、1588年には無敵艦隊と各国に恐れられた海軍がイギリスに討ち破られ、これを契機として次第に衰退の一途をたどります。1700年にスペインのハプスブルク家が断絶し、ブルボン家(フランス)の領地となりました。
 このように、スペインが覇権国家になった要因の一つには「融合文化」の存在があります。
 私がコンサルタント業でよく使用する言葉に「融合」があり、「融合とは、難局を突破しなければ成らない時に、異なる性格の概念を有機的に結合し、全く新たなビジネスモデルを創出すること」です(六車流:流通理論)。
 まさに、スペインが覇権国家になることができた基軸に「融合文化」という概念があります。上記のスペインの歴史から見て、次の2つの融合文化があります。

@第1の融合文化「異教徒との融合文化」
 スペインの歴史は、キリスト教とイスラム教の宗教対宗教の戦いでもありました。ローマ帝国の植民地であった時は、キリスト教、その後のウマイヤ朝のイスラム教、さらにキリスト教国家の再構築(レコンキスタ=国土回復運動)により、異教徒との融合は新たな文化を創造します。スペイン人の異教徒との戦いのエネルギー及び、イスラム教とキリスト教の新たな文化の創造は、国の潜在力を高めます。この新たな潜在力が、統一国家を確立し開花したのが、覇権国家「スペイン」です。
A第2の融合文化「植民地との融合文化」
 スペインはポルトガルと並んで大航海時代に活躍した国です。コロンブスによるアメリカ大陸の発見(1492年)、ヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰経由のインド航路の発見(1489年)、そしてマゼランの世界一周航海(1522年)などで南北アメリカ及びアジアに進出し、特に南北アメリカを中心に植民地を拡大し、植民地からの富や異文化、特産物を獲得し、「融合文化」を確立し、独立後のスペイン王国を世界の覇権国家へと導き、太陽の沈まぬ国と呼ばれた帝国に発展したのです。

 このように、異なる文化あるいは異なる産物の導入と融合は、互いに異質性が相乗効果を発揮して、新しい概念を創出します。
 日本でも「中国と日本の文化の融合した飛鳥文化」、「スペイン・ポルトガルと日本の文化の融合した戦国文化」、「欧米文化と日本が融合した明治文化」、「アメリカ文化と日本文化が融合した戦後文化」、どれも良い悪いに関わらず融合文化によって国力が大発展しました。

4.スペインと商環境について

 SCにとって「店舗・商品」と「客(生活者)」と「通路」、及び「空間」と「時間」を一体化し、快適かつ異質性のあるエンターテインメント・プレイス(居心地感のあるよろこびの場)を構築することをモール・プレイス戦略と言い、その1つに「ヨーロッパ型モール」の概念があり、このヨーロッパ型モールを学ぶ場としてスペインが最適です。
 スペインは、「歴史的条件」(過密な要塞都市や複数の宗教・民族・国の融合・覇権国家となったことによる王朝文化の存在)や「自然条件」(乾燥地帯)によって、異質型文化を形成し、我々が、アメリカ型のモール・プレイス戦略とは異なり、かつアメリカ型モールのアンチテーゼの"場"づくりに大いに参考になります。
 しかし、SCの開発において、ただ単にスペインの文化をイメージ化し、デザイン化(造型+色彩+光)するだけでは意味がありません。1つの文化を成果のあるものに形づくるためには「知識の取得」→「メカニズムの解明による理論化」→「成果が発揮できるように戦略化」→「成果を能率よく仕上げるようにする戦術化」の4つのプロセスがあります。
 この素晴らしいスペインの文化を、デザイン(環境づくり)とマーケティング(人々を集める手法)を融合させた概念が「新しいモール・プレイス戦略」になります。すなわち、スペインの文化をSCの中でビジネス化することです。ビジネス化とは成果のあるものにすることであり、スペインの文化によるモール・プレイス戦略により、「客がより多く集客できるようにすること」と「テナントのリーシングが容易になること」に結びつけることが必要です。
 このヨーロッパ型モール形成の概念は次の通りです(六車流:流通理論)。

 
テーマ
内        容
第1の概念
視覚で異質性を感じる要素
フォーカスポイント ( 街 角 ) +パティオ ( 中 庭 )
第2の概念
大きさと長さを感じる要素
プ ラ ザ ( 広 場 ) +ストリート (中幅な通路)
第3の概念
細かさと奥行きを感じる要素
ア レ イ ( 小 径 ) +プロムナード ( 遊 歩 道 )
第4の概念
心理的に五感を感じる要素
時 間 ( にぎわい時間 ) +空 間 ( にぎわい空間 )

@第1の概念の「視覚で異質性を感じる要素」としては、まさにスペインの街並みの中にある街角(フォーカスポイント)であり、独自性のあるパティオ(中庭)です。ヨーロッパ型モールを形成する重要な要素です。

A第2の概念の「大きさと長さを感じる要素」としては、みんなが集う広場と、モールほど幅広くない散策通路(ランブリング・ストリート)です。

B第3の概念の「細かさと奥行きを感じる要素」としては、路地風の小径と楽しく遊べるプロムナードです。

C第4の概念の「心理的に五感を感じる要素」としては、にぎわいを感じる時間と、にぎわいを感じる空間です。 ヨーロッパ、特にスペインは、ヨーロッパ型モールを形成するための宝の山です。

5.豹変画家ピカソと成果

 スペインのバルセロナで「ピカソ美術館」を見聞し、感銘を受けました。私は絵画について全く無知であったため、ピカソの絵画は孫が描いた絵画のレベルしか理解していませんでした。
 しかし、ピカソ美術館を見聞して、ピカソの天才的画家の意味及び天才的画家になるまでの成功のメカニズムを発見し、正に認識価値(意味を知って初めて良さがわかる価値)を取得しました。
 その天才的画家になるまでの成功のメカニズムを解明すると次の通りです(六車流:流通理論)。

@ピカソは基本的な描写力やデッサンは超一流の絵画技術を持っていた
 ピカソは14歳から16歳の頃、すでに基本的なデッサンを全てマスターし、展覧会でも高い評価を得て、最高の賞を授与されています。 ピカソの画風はその後、幾度となく豹変し、最後には抽象画に至り、凡人では理解できない分野で高い評価を得ましたが、それは本来の画家としての基本的能力を天才レベルで持っていることが背景にあります。

Aピカソは豹変画家として常に新しい創造的分野に挑戦し続けた
 ピカソは7つのステップを歩んで高い評価を得るようになりました。それは「基本の時代」(1901年以前)、「青の時代」(1901年〜1904年)、「バラの時代」(1904年〜1907年)、「アフリカ彫刻の時代」(1907年〜1908年)、「分析的キュビズムの時代」(1909年〜1912年)、「総合的キュビズムの時代」(1912年〜1918年)、「新古典主義の時代」(1918年〜1920年)です。ピカソの画家としての絵画技法の変化は、常に過去の延長線上の変化ではなく、全く新しい分野への創造的挑戦の結果の変化です。それゆえに、豹変画家と呼ばれています。この豹変は2つの意味を持っています。一つは、画家としての絵画技法に新しい分野を導入し、新たな画風を完成させ、さらに挑戦しつづけ画家としての"器"を大きくしたということです。もう一つは、常に世の中の人々に対して新鮮なイメージを与え豹変を続けたことです。絵画技術の向上・創出と、斬新さの提供が、ピカソの絵画を七変化(7人分の天才画家)させたのです。

Bピカソは参入障壁の高い異質分野を確立しました
 ピカソが他の画家と比べて、決定的に異質性があり、参入障壁の高い分野を確立した絵画技法が「キュビズム」です。ピカソが創始者であるキュビズムとは、1つの絵画に複数の視点を組み合わせる絵画技法であり、ルネッサンス以来の「単一焦点による遠近法」を放棄し、複数の視点による対象把握と画面上の構築を試みました。この手法は、視覚上の革命的な美術動向と言われ、今までは絵画は一ヶ所の視点から描かれていたのに対し、様々な角度から見た物の形を1つの画面に描き、立体的に物体全体を平面上に表現します。そこには時間的経過の記録や、対象となる物体を原型に近い形でキャンバスに落とし込もうとする意図も込められており、遠近法を用いた従来のアカデミックな絵画に対して野心的な試みであり、ピカソの抽象的な絵画やピカソを著しく有名にしました。そのようなピカソの確立した独自分野がキュビズムであり、ピカソのみが見える分野を見抜き、独自の参入障壁の高い絵画技法を構築しました。

Cピカソの絵画技法を客観的に評価する第3者の存在
 どのような分野においても高い評価を得るためには第3者の高い評価を得ることが必要です。自分だけが高い評価をしても、第3者の評価が得られないと世の中に通用しません。ピカソも少年時代に単なる描写屋(見た通りに正確に描く)と言われ、展覧会でも高い評価を得られない時もあり、報われないこともありました。しかし、その後、展覧会で高い評価を得られるようになったのは、ピカソの絵画を単なる描写ではなく、画家としての高い技術力を認めかつ評価した第3者がいたからです。後のキュビズムの分野を創出した際も、多くの人が「何じゃこれ」と思う絵画を高く評価し、そのキュビズムの意義を理解し、理論化した第3者がいたからこそ、今日のピカソの評価があるわけです。

 ピカソの成功のメカニズムを「基本技術の高さ」、「常に新しい分野への挑戦」、「異質性のある参入障壁の高い分野確立」、「第3者の評価」の4つのステップで分析しました。我々のSC開発・運営の成功のメカニズムに適用されるノウハウは、ピカソの天才画家へ上り詰めたメカニズムと共通している面がたくさんあります。


 
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